聖光殿 鉄斎美術館

清荒神と鉄斎

清澄寺の第37世法主光浄和上(1875~1969)は、当時、名物といえば歌劇しかなかった宝塚に、宗教と芸術文化の花を咲かせる理想の聖域を創造したいという念願をもっていました。
光浄和上と富岡鉄斎(1836~1924)は、ともに京都に生まれましたが、初めての出会いは大正11年(1922)夏、鉄斎87歳、光浄和上48歳の時でした。鉄斎芸術に深く傾倒した和上は、作品の蒐集とその研究に生涯を捧げました。

その遺志は第38世光聰和上(1927~1995)に受け継がれました。両和上は、フランスのギメ美術館、アメリカのボストン美術館、東京国立博物館、東京国立近代美術館、京都市美術館など国の内外の機関に作品を寄贈し、昭和11年(1936)より国内各地をはじめ、アメリカのニューヨーク、イタリア、ドイツ、イギリス、中国などで、当山コレクションによる鉄斎展を開催しました。光浄和上は自ら海外の展覧会場を訪れ、鉄斎の平和精神と「三宝三福」の真理を説くなど世界の人々と広く交流を持ち、いつのころからか清荒神清澄寺は、「鉄斎寺」として世界的に知られるようになりました。また光聰和上は鉄斎の賛文を解読する研究誌「鉄斎研究」(1~71号)を発刊し、さらに昭和50年(1975)鉄斎美術館を開館しました。

現法主第39世光謙和上は、作品の収蔵、保管のため平成11年(1999)に美術館に併設する収蔵庫を建設し、現在に至っています。

鉄斎とその芸術

富岡鉄斎(1836~1924)は京都に生まれ、若くして学者を志し、大阪堺の大鳥神社などの宮司を勤め、荒廃した神社の復興に尽くしました。絵はほとんど独学で学びました。そして数え89歳で没するまでに数多くの作品を描き、晩年には帝室技芸員、帝国美術院会員(今の芸術院会員)になるなど、日本の美術史に大きな足跡を遺しました。鉄斎は文人の理想である「万巻の書を読み万里の路を行く」ことを実践し、高い意味内容を含んだ味わい深い作品をつくりあげました。鉄斎は東洋のあらゆる画法を研究し、それが鉄斎ならではの独創的な表現を生み、時には繊細に、時には大胆に、何ものにもとらわれない自由闊達さが、彩色画にも水墨画にも縦横に発揮されています。主題は中国や日本の歴史、故事、逸話などから引いた物語や人物、或いは東洋画の伝統的な山水画を多く描き、やがてそれらは仙境図と呼ばれる独自の世界を表現するに至りました。

鉄斎の評価は、ますます世界的に高まりつつあります。